|         「多文化共生を阻害するもの」   ベルリンの壁の崩壊で社会主義社会は終止符を打った。しかしカール、マルクスが目指したものは「富」が公平に分配される、搾取のない社会であった。弱い立場の者、少数者
 の権利が保護される社会であった。社会法則を鋭く分析したことにおいてマルクス経済学
 は間違っていない、問題なのは、それを運用する人間が、あまりにも「愚かな動物」であ
 ったことであろう。
  日本の社会の現状を見ると、小泉改革によって公共事業、医療、年金、福祉、郵政など軒並みに困窮し派遣労働の規制緩和など、企業優遇策をさらに進展させた結果、雇用の不
 安定、格差拡大、貧困層の増大をもたらした。
 小泉・竹中による金融開放政策は、結果的に株式の大暴落によって、減産、減収、株価
 の低迷という不景気な時代を迎えてしまった。
  そして、大企業の優遇税制、助成金、低利融資、許認可などの支援システムなど、自民党政権が自ら支えて来た基盤が崩壊しつつある。
  大企業の独占資本主義は金融恐慌や大不況といった危機をもたらし危機への対応として政府が全面的介入し、経済は「国家独占資本主義」に転換するが、この転換は延命にすぎ
 ず、結果的に崩壊する。
  社会主義社会が崩壊したように、資本主義社会もすでに崩壊しつつある。時代というものが大きく揺れ動き、変わろうとしている中で、どのような新しい枠組みの社会を創るか
 が大切である。
 派遣切り、非正規雇用社員の解雇という社会的弱者の切り捨てが進行している。自由競争の行き着く先、弱肉強食の「新自由主義」は打破しなければならない。
  安倍内閣が「美しい国、日本」、「戦後レジュームからの脱却」とスローガンを揚げ憲法改正を目論みつつ崩壊した。
 しかし、国家主義の流れは止まる事なくじわじわと浸透している。国家主義の大きな流
 れ、排外的国粋主義が日本を覆っている。
  映画「靖国」を見た。この夏、反日映画という事で物議を醸した映画で、あいつぐ右翼の抗議で上映を中止する映画館が続出した問題の作品である。
 内容は中国人映画監督のドキュメンタリー記録で靖国神社を舞台に時代錯誤ともととれ
 る軍服ファッションの登場人物と日章旗、天皇陛下バンザイの掛け声、「日本人の血が流れ
 ているなら」、「大和魂がない」と国粋主義、戦争賛美ともとれる。
  祖国日本のために死んで行った人々を追悼し合祀するのは、あたり前の事のようであるが、合祀を拒否する人々も登場する。映画の中で小泉元首相が登場し、「心の問題」であり
 政治が関与する問題ではないと発言、たしかに「心の問題」であり、政治が関与すべき問
 題ではない。
  ある右派の国会議員が反日映画と決めつけ、検閲とも言える事前試写を求め、右翼が騒いだことで各映画館が上映を自粛した事の方が問題である。この国の「表現の自由」は何処へ
 行ったのか。映画の内容云々より一部の権力者によって物事が決定されることが問題である。
 民主主義社会であるなら内容を見て議論を興し賛否を問うべきであろう。
 決して一方的に「反日」と決めつける内容の映画ではない。
  戦争は利権争いである。敗戦国、日本は極東裁判により戦争犯罪を裁かれた。アメリカの原爆投下も又、戦争犯罪として裁かれなければならない。欧米列強が多くの植民地から
 収奪したことが事実であるように、日本が朝鮮を併合し中国大陸に侵攻し植民地としたこ
 とを「侵略」と呼ぶのは歴史的事実である。
  ドイツがユダヤ人を大量に虐殺したことも事実だし、日本が捕虜を虐殺したことは事実である。過去にあった歴史的事実を認識する事は必要である。前航空幕僚長、田母神某は
 この歴史的事実を認識すべきである。戦争は敵人を殺す事が誉められる、そのような非人
 間的な戦争はすべきではない。
  日本は第二次世界大戦の敗戦によって、「戦争の愚かさ」、「平和の大切さ」を学んだはずなのに、戦後60年、平和の尊さ、民主主義のすばらしさを蔑ろにし、国家主義へと転
 換しつつある。私たちが歴史を正確に認識し、明治以後の軍事国家日本の醜態を理解する
 事は決して「自虐史観」によるものではない、被侵略国を擁護している訳でもない。戦争
 の愚かしさを知り、民主主義のすばらしさを知ることが、唯一、将来の日本の平和に繋が
 る事を言いたいだけである。
  多文化共生について考える時、次の2点を考えなかればならない。1つは日本社会で在日韓国・朝鮮人が存在する歴史的な形成の特殊性、植民地支配によって故郷を追われ、日
 本社会の労働力不足を支えるべく底辺労働者として生活し戦後日本に残留した歴史的事実。
 もう1つは日本人の単一民族観である。日本は単一純粋の起原を持つ共通の文化と血統
 を持った日本民族だけで構成されている、その考え方が外国人に日本社会への適応を求める。
 異なった他者であることを認めず、他者としてのアイデンティティを否定し、日本人への
 「同化を求める」、そして戦前において、皇民化政策の中で天皇の臣民としての自覚を植え
 つけるため、神社参拝の強制、天皇への忠誠を謳う「皇国臣民の誓詞」の唱和、朝鮮語の
 排除、創氏改名などを行い、日本人の「振り」をする事を強制してきた。
  1972年の日中国交正常化による残留孤児の帰国。1975年のインドシナ革命による難民の上陸。1985年プラザ合意により日本社会は深刻な労働力不足に対して発展途
 上国から大量の外国人労働者を受け入れた。外国人労働者、農村花嫁、難民と言ったオー
 ルドカーマと違ったニューカーマが形成されてきた。
 経済的に豊かな国へ労働力が流れ込んでくる事は自然なことである。そして低賃金の社会的底辺社会を構成していく。外国人が日本に流入してくる必然性と多文化共生の必要性、
 多様な文化を前提とする新たな枠組みが必要であるのに、国家としての政策がまったく出
 来ていない。
 共生は自己と他者の平等、公平な水平的関係の上にこそ実現可能なものとなる。すべての人が平等な関係においてのみ成り立つ。弱い者、マイノリティの権利が保障される社会
 でのみ成立する。日本のように、国家の枠組みの中に最低限に差別された存在として組み
 込んでいく、権力者に都合のよいように弱者が差別されている社会の現状の中では成立し
 がたい。
 新自由主義、国家主義は共生の概念に反する。日本社会において異なる民族集団の共存、共生を目指すには、基本的人権をすべての人間に普遍的なものとする、差別、被差別の関
 係から共生共存の関係へ、差異を差異と認め合う共生教育、社会的弱者に対する配慮が必
 要である。外国人と地域住民が市民の権利を共有し、共に生きる共生社会が求められる、
 他者として認め合う関係を築くことが必須の課題である。
 多文化共生社会の根底には一部の権力者が「富」を独占するのではなく、富を公平に分配する「共生経済社会」の出現が必要である。
 市場優先主義、利益万能主義、新自由主義は間違っている。弱者が保護される、人にや
 さしい社会が「多文化共生」を支えるものであると考える。
 日本人の精神性の中にある国家主義、国粋主義、単一民族観は多文化共生の理念となじ
 まない、むしろ相反する面を持っている。
 嘗て、東京都の教育が革新的なものだった頃、ジエンダーフリーのもと男女共同参画社会、男女平等教育を推進、男女混合名簿を実践してきたが、石原都政下、知事の石原、一
 部の都議、教育委員などにより男女共同参画社会が否定されることにより影を潜めてしま
 った。
 「ダンジョビョウドウ」はすばらしい理念である、おなじように「タブンカキョウセイ」
 もすばらしい理念である。だから「多文化共生」の理念に異論を唱え難い。しかし、嘗て
 の男女平等参画社会と同様に国家権力によって「多文化共生」が否定された時、いかなる
 立場をとるかが大切である。
  川崎市の「多文化共生教育」施策は行政から与えられたものではない。地域住民の無理解、反対を乗り越え、根気よく市民運動、地域運動をつづけ行政との合意形成をえて、自
 分たちの努力で勝ち得た(獲得)したものである。
  「国歌斉唱義務不存在確認等請求訴訟」の原告として提訴しているが根本は同じである。「日の丸」に起立する、しない、「君が代」を謳う、謳わないは「心の問題」であり政治が
 関与する問題ではない。教育の「場」において権力が処分をちらつかせ恫喝行為を行って
 まで強制すべきものではない。人間としての基本的人権はすべての人に保証されなければ
 ならない。人権がないがしろにされ、教育の本質が個人の「人格の完成」から「国家主義」
 に変換させられていくことに反対なのである。
 一部の偏向した考えを持った人間によって、生きる権利が疎外されていいのか。やはり、
 理不尽な事に対しては不利益を被っても発言し続ける、「憲法なんか関係ねー」と言った類
 の人間が国家を主導していくことをみんなで監視していかなければならない。
 「多文化共生」実現のプロセスには構成員が平等で、社会的弱者が保護され、基本的人権がすべての人に保障される社会。富が公平に分配される、搾取のない社会。何よりも他
 人に対して思いやりのある社会が必要である。その礎のもと「多文化共生」は成り立つと
 考える。
                            (2009年1月11日) |