文政2年漂着朝鮮人長崎送還経過(大嶋文書・他)概略
大嶋文書は今から、186年前に鳥取の赤崎に漂着した朝鮮人達を長崎まで送り、朝鮮に送還した記録で、文面から、当時の日本と朝鮮の友好的な交流が読みとれる
1819年(文政2年)正月12日、午後2時すぎ伯鰭国八橋の沖合に異国船漂流、この日の晩方乗組員12名が八橋浦に漂着した。
彼らは朝鮮国平海州の者で、干鰯を売るために正月7日に出船したが、冬の日本海の強風に遭い遭難したという。鳥取藩は漂着の次第を江戸藩邸に知らせ、藩邸から幕府に通知。漂着民を八橋から陸路、鳥取に移送する際の移送方法、付き添いや警備の人数、さらには付き添いの役人の衣服にいたるまで、移送の準備が進められた。
正月24日、異国人、鳥取の城下に到着、町会所を宿舎とする。裏判役所の管理下に置かれる。2月7日、鳥取藩の異国人長崎送還担当の使者として大嶋と奥田が任命された。江戸幕府は前例に従い長崎から故郷に返すように命じる。交通手段に関しては海路で送るように指令を伝達。
長崎までの漂着民の同行を命じられたのが、岡金右衛門、大嶋平右衛門、奥田鉄蔵、本木権左衛門の4名。それに、付き添いの医師、その他、警備員などを含めて41名が同行することになる。
4月8日の朝、異国人と諸役人一行、鳥取を出発。
安長の渡しまでは徒歩、川を渡ってからは駕籠に乗せられ青谷、赤崎、淀江を経由、11日境村到着した。
4月13日、船は蜘勇丸と幸要丸という藩所有の船二艘で境港から長崎へ航海。境村を出港して38日かけて5月23日に長崎に到着。その日の内に、長崎奉行御用達の役人がやってきて、引渡しの打ち合わせが行われた。
翌日、鳥取藩士の本木権左衛門が長崎奉行の元に出向き、次の日に朝鮮漂着民12名を引渡し、所持品の改めを受けるように指示された。また、対馬藩からは通訳を呼び漂着民に面会させた。
翌日、24日、長崎奉行の元で漂着民たちの取り調べが行われた。漂着民は朝鮮人に相違なく、他に仔細はないと確認されて、その結果、特段咎めだてすること事もないと判断され、無事、鳥取藩から対馬藩への漂着者引渡しが完了。5月30日、使者一行長崎を出発。
2005年7月11日(月)
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