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 「表現の自由が危ないー10・23通達と9・21難波判決」 


                                             

立川反戦ビラ入れ裁判、市民団体立川自衛隊監視テント村のメンバー3人が数回にわたり自衛隊員の官舎に「イラク戦争を共に考えよう」と書いたビラを配布したことを理由に逮捕され、その後75日間にわたり長期拘留を強いられた事件。一審、東京地裁は「ビラ入れは民主主義社会の根幹をなす政治的な表現活動である」として被告を無罪とした。
 しかし検察側は上告し高裁で罰金刑の有罪判決。そして、上告審において2008年4月、最高裁判所が上告を棄却し有罪判決が確定した。
 政府の見解と異なる意見を発する者を長期間「投獄」することによって黙らせるという戦前のファシズム社会を彷彿させ、表現の自由を脅かす不当な判決であると考える。最高裁の「邸宅侵入罪として軽妙に扱えない」上告棄却の判決文にはビラ投函行為という表現の自由に対する配慮が全く感じられない。

 この最高裁判決の確定は大変な意味を持っている。自由な意見の表明が警察権力によって押さえつけられるようになる。政府見解とは異なるビラだけをとりあげ配布者を弾圧し市民運動を萎縮させる。
 しかし、私生活の平穏を侵害すると言っても、その被害が明確には証明されていない。にもかかわらず言論活動に刑事罰を科する。反戦ビラを配ったことが刑事罰をもって国家が前面に出て取り締らなければいけないことなのか。ビラを配ることが刑事罰を与えられる程の罪なのか。判決には疑問と憤りを感じる。

 同じ表現の自由に関する裁判として、元都立板橋高校の社会科教員、藤田勝久氏に対しての高裁での控訴審で上告を棄却、卒業式開式前の行為が「威力業務妨害罪」にあたるとして罰金20万円(求刑懲役8月)を科した。そして、被告弁護側は即刻上告、事件は最高裁で争われることになった。
 事件の概要は2004年3月、都立板橋高校の卒業式で、開式18分前、平穏に週刊誌のコピーを配布しその直後、穏やかに数十秒だけ保護者に君が代問題の説明を行い「できましたら君が代斉唱の時、着席を」と語りかけただけである。
 上告棄却の判決文は厳粛な状況下で開式の直前にコピーを配布し、卒業式を2分遅らせたことが「威力業務妨害」にあたる。藤田氏の発言によって2分間卒業式を遅延させたことが、他者の権利を侵害したのだから刑事罰を与えられても仕方がない。
しかし、卒業式開始18分前の保護者を想像して下さい。私の経験から言えば、トイレに行ったり、携帯電話を掛けたり、次々と参列者が現れたり、知り合い同士挨拶をしたり、止め処もなく話をしたり、おまけに遅刻をして来たり、厳粛と言う状況とはかけ離れている。そもそも卒業式が遅れる事は毎度の事である。
 この事件でも立川反戦ビラ配布と同じように、被害が明確に証明されていない。にもかかわらず、刑事罰を科する。卒業式が2分おくれたと言うことが、その当人に責任があったとしても刑事罰を与えるものであろうか。
 この事件の恐ろしい事は公権力の意に反する者に対して特定の政治勢力に呼応し公安警察、検察がデッチあげた「捏造事件」であることだ。 
 そして、裁判所が特定の権力者に加担し、裁判の審理の中で検察側の証人の「偽証」、原告側証人によって、「ビラ配布制止、保護者への呼びかけの制止」がなかつたことを示す多数の証拠を黙殺し権力者に恣意的、かつ政治的な不当判決を下したことである。
冤罪により誰もが刑事事件の被告になりうることである。
 C型肝炎訴訟、被爆者の訴訟では裁判所からよい判決が出されているが、人権に関する事件、治安に関する事件、表現の自由に関する事件では「国策裁判」としか言いようがない、ひどい判決が多い。
 板橋高校卒業式での藤田氏のささいな市民の軽妙な発言行為を「刑事罰」として罰することで、「日の丸、君が代」を強制する国家主義威嚇を強め、言論、表現の自由を国家に絡め取っていこうとするものである。
 一審、東京地裁の有罪の根拠は「ご理解ねがって、できたら着席お願いします」と5秒ばかりの呼びかけと2分の開式遅れが10.23通達に基づく「起立、斉唱させる」という管理職の業務を「妨害」しているということである。
 立川反戦ビラ事件は、一審の無罪判決が高裁で逆転有罪、そして最高裁では弁論さえ開かず棄却、「表現の方法が問題だ」と憲法を歪曲し「表現の自由」を蹂躙して憚らない。
 立川判決における憲法の「表現の自由」への不当な蹂躙に大変な怒りと危惧を感じるが「国に逆らうことは犯罪であることを理解せよ」とする有形無形の力が日本を覆い尽くそうとしている。

 表現の自由に関する最大の「教育裁判」として、「国歌斉唱義務不存在等確認訴訟」、いわゆる「予防訴訟」がある。石原都政下での拙速な教育改悪の一環として行われている、異常な教育行政の介入が見てとれる。
 事件の概要は2003年10月23日の10・23通達において入、卒業式において「日の丸」に向かって起立し、「君が代」を歌えと言った職務命令が出され、命令に逆らえば処分すると恫喝し、卒業式当日、教職員の座席が決められ都教委から監視の役人が各校2名派遣された。
 そんな中で、国歌斉唱の時、およそ40秒ばかリ不起立を行った193名(2003年卒業式のみ)の内、現職教員が「戒告」という非常に重い懲戒処分を受け、嘱託雇用の教員が解雇され、再雇用を希望していた教員が採用を拒否された。(2008年までに410名が不起立により処分されている)
 本多勝一氏が『週間金曜日』、第708号(6月27日発行)の「貧困なる精神」の中で述べているように、そもそも「君が代を立って歌え!」とか「君が代のピアノ伴奏をしろ!」などという憲法で保証されている「内心の自由」に触法する、通常ありえない「職務命令」を受けて、起立して歌う教員の頭がおかしいのであって、自らの信念に照らし、その命令に従わず、不起立を貫き通した教員がまともである。
 10・23通達はやっぱりおかしい、「戒告」処分は納得できないと考えた教職員が裁判に訴えた。
 2006年9月21日、東京地裁(難波裁判長)で10・23通達には「明白かつ重大な瑕疵があり、違憲、違法であり、同通達に基づく職務命令に従う義務はないこと。また、これに基づいていかなる処分もしてはならない」ことなど判断を示した。
 しかし、都教委は9月29日に控訴をした。のみならず、司法の判断を無視して「卒、入学式での対応は一切変更するものではない」などと校長らに対して引き続き職務命令を出すように強い指導を行った。それに加えて、「内心の自由を生徒、保護者に説明するな」という指導を強め、さらに卒業式での都教委祝辞では東京オリンピック誘致の推進など石原都政を自画自賛する内容の文章が読み上げられた。式典の主役であるべき生徒への励ましの視点はなく、ただ式典の場を利用して石原都政の施策の推進を宣伝する姿だけである。  
 そして、現在、国旗国歌法が制定されたおり「義務付けを行うものではない」と言う政府答弁から逸脱し生徒への「日の丸への起立」、「君が代の斉唱」が強制されている状況である 

 ここで都立高校の現状を簡単に書いておく。石原都政になってから教職員に対しての締め付けが厳しくなり、研修権の剥奪、異動要項の改悪、週案、自己申告書の提出、そして「主幹制」が導入され、戦後、守り抜いてきた「主任制拒否運動」が骨抜きにされた。
 従来、最高の意志決定機関であった、職員会議が校長の恣意機関とされ、一部教員で構成される「企画調整会議」ですべてが決定される。上意下達、一般教員の派遣社員化を目論むものであるが、その結果、教員の間に無気力感が蔓延し、教員間の意思疎通が不充分になり仕事が円滑に進まなくなっている。管理職希望者が激減、公務分掌の割り振りが出来なくなってきている。
 そんな中で、都立三鷹高校の土肥校長が「職員会議での挙手、採決の禁止(通知2006,4,11)は民主主義を教える教育の世界で、言論の自由を封殺し許されない」、「教職員を萎縮させ、教育活動を不活発にするので撤回せよ」、「都教委は校長主導と言いながら、校長を自らのロボットにしている」と直接要求した。
 土肥氏は「マスコミを通じて公開討論を要求」これも都教委は無視している。都教委、石原教育行政は余りにもひどい反民主主義的な教育行政をしてきていることを示している。 
 都教委の教育破壊は目に余るもので、教育行政、学校支配、職場支配は新東京銀行の破綻と同じく行き詰まりを見せている。
 9・21難波判決について考えると、@「君が代」の起立、斉唱の強制は「思想、良心の自由」を保障する、憲法19条に違反し、また教育基本法(旧)にも違反している。
 憲法19条を絶対的に保証し、10・23通達が明白かつ重大な違法性があり従う必要はないと断言。思想、良心の自由を制約できるのは他人の人権が著しく侵害された場合に限られる。A学習指導要領はあくまでも目安であって、教育はそれぞれの教員や学校の自主性に委ねられねばならない。入、卒業式のやり方を細かく指示している10・23通達は学習指導要領の規定をはるかに逸脱するもので到底認められない。B「日の丸、君が代」は皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきた歴史的な事実があり、国民の間に反感を持つ人がいるのは否定できない。
 これらの問題点について私なりに考えると、@教育の場は自分自身の価値観を形成する場であるべきで、民主主義の理念に矛盾する君が代を強制することは認められない。
 A職務命令によるピラミッド型の上命下服(上意下達)の支配体制は自由に考えることが許されなくなる。教育は本来、教職員の協働、協力により機能するものである。個々の個性や価値観を認めない、教員の論議を否定することは、生徒の人権を否定するものである。
 B教員免許の更新制は国家によるファシズム教育を批判し、日の丸、君が代強制に反対し抵抗する教員を現場から排除しようとするものである。都民や国民の意見を問うことなく決めるやり方はファシズムそのものである。東京における学力至上主義による児童、生徒を学校のランク付けにより差別化する、学校差別、選別、格差教育を根本的に変えなければいけない。
 以上のことについて考えると、都立高校では戦後、長い間、生徒の自主性や多様性を大事にする教育がなされてきた。生徒の人間性を高め、豊にすることが教育の目標であった。 
 都教委による学校支配により自由な気風が失われ、教職員、生徒とも萎縮させられている。「日の丸・君が代」の強制は1つの価値観を公教育の中に押し付けるものである。教育というものは生徒の思考力、創造力、判断力、批判力を育むことが目的であり、生徒を中心とした、生徒のためを考えて、教育が行われることが教育の本質である。
 「戦争は教室からはじまる」と言われるように、教育を国家権力で統制し「表現の自由」を学校から奪い去る、これらの動きにNO!と言わなければならない。
    
                       2008.07.14